私の中の巨人

 まだ舟越保武のことも作品も知らないとき、大学に入る前に先生に出会った。まだ先生が東京芸大の教授だったころ。その後先生は多摩美の教授になり 芸大を落ちた私はあとを追うように多摩美に入学。 昔の多摩美は教授の部屋というものはなく一つの研究室をみんなで使っていた。 来校した先生は時に研究室には寄らず 裏から直接我々のアトリエに来ることもあった。だいたい昼前後。さほど教えることもなくただ黙って私たちの仕事を見ていたり、モデルを見てデッサンを描いていた。 舟越保武の作品を甘いと言う人もいる、しかし私にはその甘さはとても高級なものに感じる。ある時「もし芸術に崇高と俗なものがあるとしたら、私は一歩だけ崇高に居たい」と言っていた。ものすごく憧れた。 大学の長い休みに入るとモデルは来ない。だから直接モデルと交渉して安く来てもらう。それは多摩美だけでなく他の美大もそうしていたから 多摩美にモデルが来れば近くの東京造形大から 造形大にモデルが入れば私たちも参加した。 昔は携帯電話などなく先生に連絡をするときは 公衆電話か手紙だった。先生は直ぐに返信をくれた。「昔、忠良君と勉強していた時の事を思い出す」と。ただ、それだけで私は良かった、繋がっていることだけで良かった。自分が作家への道を進んでいると思えたから。 ある時先生がアトリエで、「この中(20人ほどいたか)で一人作家になればいい、それ以外は肥やしになりなさいと言った。誰もがその一人が自分だと思ったのであろう結果として全体のレベルが上がっていった。舟越マジックだ。

 多摩美の大学院は世田谷区上野毛にあったが、先生のご自宅からさほど遠くないせいか良くいらしてくださった。1986年大学院1年の冬、クリスマス会を兼ねて先生の誕生日会を開いた。それが先生の元気な姿を見た最後となった。 それから数ヵ月程経って 先生の奥様から一枚の葉書が届いた。「舟越が会いたがっているから病院に行って欲しいと」直ぐに行って ベットに横たわる先生に再開した。何を話したかはあまり覚えていないが、やたらに人の名を口にされていたのは覚えている。「○○君は元気か?」「○○君は?」と。その名の人達は 私も知っている先生が芸大にいた頃の学生だった。私よりも十も上の人達の名。
その後大学院を修了するにあたって、ばらばらになっていく私たちへのお祝いの言葉をもらいたく修了式の一日前に電話をした。この修了式は私たちにとってとても意味があったからである。二年前の学部の卒業式、東京は見たことのない豪雪に見舞われ、実質の卒業式はないに等しく、今回の大学院修了は あれ以来会っていない仲間たちとの卒業式も兼ねていたからだ。電話の相手は当然先生ではなく奥様であったが、「ちょっと待ってて」のあと、思いもかけぬ答えが返ってきたのだ。私はただ、みんなへの励ましの言葉を代返していただけるものだと思っていたし、それ以上望んでもいなかったが、「式の前に家に来れる?」と言われ「はい」と 一言。当日の朝ご自宅に伺て驚いた。先生が車椅子で出てきて分厚い手紙を渡してくれた。「参加できないけれど宜しく」と。夜型の先生は 昨晩私達に左手で送る言葉を書いてくださっていたのだ。舟越保武という人はそういう人なのだ。受け取って目頭が熱くなった。

 その後私は目黒の現代彫刻美術館に入り、彫刻の管理をしながら作家活動が始まった。学生という肩書がなくなって新人の彫刻家として歩み始まった時、舟越保武がとても怖くて仕方なくなった。それは 作家として先生を見上げてみると 先生と私の間にはもの凄い数の著名な作家たちがいて 本来私みたいなものがあんなに近くにいれた人ではなかったことの恐怖心ともいえるものがこみ上げてきたのだ。それから 手紙のやり取りはあったものの その後数年は直接お会いすることは出来なかった。その間 とにかく先生の前に立てるべく作家になることを目標に 自分の作品と向き合ってきた。 それから数年が経ち私の個展にも車椅子で来てくださったり 私の企画した展覧会にも作品の出品を快く受けてくださった。

 そして私自身もう一歩向上しようと思ってイタリアへ留学していた時 先生は逝ってしまった。それもその日が長崎二六聖人の殉教の日。先生らしい。やっぱり舟越マジックだ。
今回の個展は 彫刻家として生きてこれたのも今でも先生が私の中にいってくれているお礼だ。というよりお礼が出来るようになったってことなのかもしれない。私は 絶対に先生は越えられないが、もう少し位は前に進んでいけるだろう。私の中の巨人と共に。