物質性にまさる精神性―湯川隆の近年の彫刻

物質性にまさる精神性―湯川隆の近年の彫刻
 いわき市立美術館 副館長 佐々木吉晴 2007年12月

ギリシア神話にピュグマリオンという彫刻家(一説には小国の王)が登場する。周囲の女性たちを嫌悪し、理想化した女性を大理石から彫り上げたピュグマリオンは、ほどなくその彫像に恋をしてしまった。応えてもらえない恋にやつれゆくピュグマリオンに同情した愛の女神アプロディテー(ヴィーナス)が、彫像に神の息を吹きかけたところ、彫像に命が宿りガラテアという美しい女性に変身したという話である。世紀末に活躍したフランス・アカデミズムの大家ジャン・レオン・ジェロームの「ピュグマリオンとガラテア」に、上半身から徐々に「人間化」しつつある女性像=ガラテアが、変身が完了するのを待ちきれずに、ピュグマリオンの愛に応えるべく大きく身体をひねって彼とくちづけをするさまが鮮やかに描かれている。近代ヨーロッパで広く愛読され、とりわけ美術家たちに大きなインスピレーションを与えたローマ時代の詩人オウィディウスの名著『変身物語Metamorphoses』に取材したものである。同様に、よく知られるオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディー」のベースも、この神話に由来している。

 ギリシアの文化思想を受け継いだローマ時代、息spiritusは、肉体すなわち物質的なかたちの内側にある生命と精神の象徴であると考えられていた。神が物質に息を吹きかけるのは神の命の一部を分け与えることを、すなわち神に準ずる神的特性を付与することを意味していた。芸術に当てはめて言えば、芸術家が「匠の技」で作り上げたもの、すなわちアルスarsが、単なる工芸の域を超えるのは、このspiritusが付与されるからであると見なされた。神的な霊感を得ること―英語で言うところのインスピレーションという言葉はここから(in-spiritus)きている。

 彫刻家ピュグマリオンの神話をとりあげることでわたしが示唆したいのは、「男が自分の思い通りになる女を獲得するには最初からそう育てなければならない」などという偏った表層的ストーリー構造ではなく、単に優れた技術のみで芸術が発生するのではないこと、また、かつてブールデルがミノタウロスとケンタウロスの闘いを表す作品に「精神に従う物質」と名づけたように、芸術と芸術的精神は本質的に物質性に決して従属するものではないということである。とはいえかたちはかたちとして、大理石は大理石として、物質的に自律する。ならば彫刻としての「かたち」はどうであろうか。arsを芸術たらしめるspiritusは、彫刻のかたちにどう現れるのだろうか。

 わたしは読者を答えの出ない迷宮に送ろうとしているのではない。長い前置きになったが、彫刻の慣習的で物質的な定義の狭い枠が、湯川隆の作品を評価する際に必ずしも適切な基準とはならないかもしれないことを指摘したいだけである。

 イタリアから帰国後、湯川の作品からは徐々に肉体的物質的な存在感が薄れ、ますます精神的な存在性が増している。そこにあるのは動かない塊ではなく、空間との関係の中で広がりかつ収斂する穏やかな精神の脈動、すなわち生命の呼吸である。木の切れ込むようなラインのかすかな丸みから、無駄を排除しつつなお柔らか味を帯びたモティーフの面立ちから、皮膚感のある人体のフォルムから、さらにはテラコッタの手の指先からすら、われわれはある種の命の律動を感じる。彼は細部までゆるがせにせず、魂を吹き込もうとしているようだ。そこに「あらゆるものの部分は、それ自身のうちに全体の性質を保っている」というレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を連想しても、あながち的外れではないだろう。意図するしないにかかわらず、湯川のこうした方向性が、彼がテラコッタや木といった自然素材を採用していることと無関係であるはずがない。事実テラコッタに木を加えることによって、そうした傾向がより顕著になったわけだから。

 存在の二様――物質的であることと精神的であることの対立ではなく、これもまた古代から借用すれば、アダムとエヴァあるいは古代インドのヤマとヤミーの関係のように、湯川隆の作品に、二極の対立を超えて全的な再統合へと至ろうとする本能的な欲求をみることもできよう。そしてその静かなる調和の中から滲み出るように顕れるある種の情動こそが、この彫刻家の最も重要なテーマとなるものであると、この数年わたしは確信の思いを強くしている。崇高かつ普遍的でありながら、日本人が自らの文化の中で口に出すことを臆し続けてきたその情動を、韓国の皆さんにも、彼の作品から是非感じ取っていただきたいと願う。