木の文化―湯川隆の制作のもうひとつの要素

木の文化―湯川隆の制作のもうひとつの要素
 いわき市立美術館 副館長 佐々木吉晴 2009年4月

ここ数年の間にわたしは、湯川隆がコロンビア、韓国、フロリダ、キューバなどの海外に飛んで現地制作・発表し、合間に東京といわきで幾度も個展を開催するという尋常ならざる過密な活動を、彼から何十歩も遅れた地点から驚異の目で眺め、そのうち数回については極めて私的なエッセイを草してきた。土から生命を生み出す最も古くて単純なテラコッタの技法の選択について、物質性と精神性の合一に向かっているように思われる近年のかたちの表出について、そして彼の彫刻を貫く彼固有のものであると同時に人類普遍のものでもあるテーマについてなどである。わたしはもう十分に語り尽くしたはずであり、彼がさらに数百歩先に進むまで当分の間、書くべきこともないであろうと思い込んでいた。けれどごく最近になって新作の幾つかを、とりわけ男性像の大作を見ているうちに、わたしは彼についてまだ書き残しているものがあることに、すなわち本来的に彼の中にあって徐々に顕在化してきた木の文化について書かなければならないことに気がついた――

もともと文化cultureという言葉は、ヨーロッパ文明の礎となった古代ローマのラテン語culturaを語源とする。本来「よく耕された」という意味であり、ローマの成熟後に「洗練された」状態をも指すようになり、そこから転じて概念的に表す名詞 ― すなわち「文化」として用いられるようになった。古代ローマにおける文化とはあくまで自らの優位性を基準とする評価に基づいて語られたものであったが、近代以降のわれわれは多くの調査や発見と衝突や略奪の時代を経て、少なくとも文化に優劣はない(クロード・レヴィ=ストロース)ことと、ある文化の尺度で異なる文化を判断すべきではない(ルース・ベネディクト)ことを、さらに動物の生態と進化におけると同様、文化それ自体もまた風土環境などに対する適応と個別化の歴史を内包するものであることを学んできた。適応 ― 例えばメソポタミアでは石がなく樹木が乏しい代わりに豊富な堆積土と太陽熱を用いてレンガがつくられ、建物が建てられ、改良工夫によってアーチ構造などが発明された。古代ギリシアでは、BC.5世紀のパルテノン神殿と彫刻群など各地に残る遺構によって明らかなように、豊富に産出する石灰岩や大理石や漆喰などが主たる建築材となった。これを「石の文化」と呼ぶならば前者は「レンガ(泥)の文化」であり、そうした視点でとらえるならば日本は「木の文化」である。寺社の壮大かつ精密な木組み、シンプルで理にかなった木造家屋、木の器や箸、自然を模した庭園、盆栽、寄木造りの仏像、イグネ、木簡・・・ミケランジェロは石の中にかたちがあると言い、江戸時代の円空は木の中に仏さんがいると言っていた。われわれ日本人の文化は確かに木とともにあった。

以前、湯川は家業の関係で、日常的にさまざまな木材に触れて成長したと聞いた記憶がある。一定以上のより直接的なかたちで、木の文化は湯川の中に浸透していたに違いない。彼がテラコッタに木を組み合わせるようになった直接的な理由として、かつてわたしは、それらがともに自然的な素材であってなじみやすく、何よりも彼のテーマと目指す方向に最も適しているからと思われるというようなことを書いた。今回それにもうひとつ付け加えるならば(というよりも、より重要なポイントは)、初期の西洋的なものへの憧憬と模倣の時期を経て、近年、それらが換骨奪胎されていくときにおのずと立ちあらわれてきたのが、彼の中にあった極めて日本的な部分だったと言えるかもしれない。

木材の扱いは難しい。乾燥すると割れるし、芯の部位に比べていわゆるシラタと呼ばれる外周の部位は柔らかく脆い。通常は何年も寝かせてから、シラタをそぎ落として材にする。湯川は敢えてシラタを落とさずに、樹脂で止めてそのままかたちとなしている。ある目的のためには阻害要因は排除しなければならない、とわれわれは思う。対して、おそらく彼は、シラタも割れもあってこその木としての存在であり、そこからつくりつくられたかたちであると考えているのだろう。素材と格闘しながらも、あくまで彼の素材に対する態度は優しい。わたしはそこに、木と長く対話してきた文化的な素養とともに、彼の表現を貫いてきた最も重要なテーマとの連関性を見る。

かつてコンスタブルは「わたしは醜いものを見たことがない」といい、ルノワールはリュウマチに苦しみながらも、絵を描くのも人生も楽しく美しいと言った。湯川の作品にも、精神性と静謐感ただようなかで、おのずと彼らに共通する明るく肯定的な態度があらわれているようにわたしは感じる。そしてそうした芸術と人生に対する態度こそが、まるでヘルメースのサンダルを履いているかのように世界中を忙しく飛び回る彼を支えているのではないだろうか。